私が「私」という一人称で固定されたのは、高校生のはじめ頃だった。
それまで私は一人称を決めずにいた。小学生の頃は使ってさえいなかった。

一人称はいつ固定されるのだろうと、時々不思議に思う。僕、俺、私、あたし、うちetc……。それらの呼称が自分の代わりになるものだと、人はいつ納得して使い始めるのだろう。

小学生だった頃の私は、一人称を使わなかった。自分を示す主語を用いずに話していた。そのため、ものを考え思う場としての自分を「これ」と呼んでいたと記憶している。
「これ」というのも、一人称を使わないと文法が崩れるときに使う、うめ合わせとしての主語だった。不都合は特になかったような気がするが、今の自分ではとても想像できないコミュニケーションだ。
「私」と言えば済む一切を、どうやって相手に伝えていたのだろう?例えば楽しいとか、◯◯したい、とか、ものごとが起こっている発信源を、どうやって定めていたのだろう?

不思議なことに学校の授業や作文では、違和感なく一人称として「私」を使うことができた。ただ、いち人間として友人や家族や先生と話していると、なぜか一人称が不在になる。その空白を自覚したのは、同級生の一人称が揺らぐことに気づいたときだ。

「わたし」が「うち」に、 ぼく」が「おれ」に変化している人がいる。
どうやって決め、いつ変わったのだろう。今何か考えている「これ」、つまり自分はどう呼ぶのが適切なのだろうか……。

それから試着するように様々な一人称を試してみた。名前呼び、私、うち、あたし、僕、俺。
試用期間を経て、今では「私」を一人称に採用している。理由は一番公私選ばず使えそうだからだ。まるで着回しできる服の選び方みたいだが、一人称もフォーマルとカジュアルで使い分けるのだし、似たようなものだと思う。

私は今でも、一人称の試着と着回しをする。ひそかに、自分の内面で。
面白いことに、一人称が変わると思考の声色や、惹かれる言葉、感情のベクトルまで影響される。私が一人称を使っているというより、一人称に私が使われているのかもしれない。

皆さんの一人称はいつ生まれましたか?