春がくるとしんどいという人の気持ちもよく聞くので恐縮してしまうけれども、どうやら私は春が来ると急に元気。からだが内から勝手にほどけるようで助かるし、多分景色にめくるめく色々な色があるのが好きなのだ。花粉や黄砂によって体の表面のあたりはたしかにぐずぐずしているけれど、そんな無数の粉によるもやもやの春のヴェールが夕日を幻想的に見せてくれることを心から愉快がる。
春が来ると急にSNSも更新できるようになったためInstagramの自分のフィードも急速に春うらら。遡れば去年も冬の記録がほとんどなく、突然に春に元気で、自分の性格を過去の結果から理解する。後輩に話すと「動物って感じですね!」といわれて、ほんとうにそうですねと思った。
| 去年の春のお部屋。
それで、ここにもひさしぶりに日記を投稿してみました。
プロフィールには2022年の春ごろ、3年前で26歳の頃の自分の日記や、その頃の自分が撮っていた写真、ことばがそのまま残っていて、嬉しさや懐かしさや切なさを見る。
| 今の言葉に書き換えたので記念に記録(2022年に使っていたプロフィール画面)
このときのわたしはたとえば、インターネットにじぶんのすがたをだすことや、自分のことを話すことの、おそろしさのようなものや、残すに「値する」ことを持っているとは思えない気持ちで半信半疑でいたとおもう。いまもそれはないわけではないし、正解というのはわからないまま。そのうちに自分の気持ちや価値観が変わるであろうこと、誰かを知らず知らずに傷つけてはしまわないだろうかということ、それらをあとで取り返しもつかないくらい恥ずかしく思うことがあるのではないかと。
けれどもこうしてたまに過去の自分に出会うと、あのとき残しておいてくれて本当に良かったなという気持ちでほんわかとうれしい。たった3年前のわたし、大した何も変わっていないと思っていたけれど、おずおずと、小さく丁寧にたたんだハンカチみたいな文章や世界の見方、恥ずかしがりやのかわいい宝物を見せてもらっているよう。
こういうじぶんはもう多分二度といないとおもうと寂しくて愛おしく、気が楽でもある。迷ったまま少しずつ大丈夫になっていく。
当時の自分と比べたらずいぶん、なんというか肝が座った、今のわたしにはもうない種類の囁き方。期間限定であったことにいつもあとからきづく。(でもこうして 小さい文字でしかわたしは気持ちを書けないなと思うことがあり あとからみたら現在の地点も同じように思うかもしれない)
インターネットやSNSに書くことであっても、たとえば0歳から100歳までの自分がひとりずつ見ていてくれて、14歳の、22歳の、25歳のわたしが夢と憧れの眼差しを(そして彼女たちが夢を見、憧れてくれていたおかげで今のわたしの愉快な暮らしがあるな)、35歳の、40歳の、また50歳や80歳や100歳のわたしが応援やありがとな〜の眼差しを(過去の自分が始めたら試したりしてくれていたことって未来の自分はたいてい感謝している)、たえまなく注いでくれているようなものだと忘れずにいれたらいいな。
(A dreamer) on 2025/03/28
心ときめく春を記憶しておきたい日のコラージュ。