戦争について怒ってるし許せないしどうにかしたいんだけど、考えれば考えるほど、自分の日々の何気ない選択が、誰かを抑圧し加害することに加担していることに気づいて、とても苦しい。そんなこと気にしていると何もできなくなるってのはそうかもしれないけど、一見穏やかに見える暮らしの中の、そのひと言やひとつの行為の延長線上に虐殺があると思うと、やりきれなくなる。

「戦争では国民みんなが酷い目に遭ったんだから我慢なさい」という受忍論という理屈を盾に、東京大空襲の10万人を超える犠牲者や、300万人を超える罹災者に対する補償は何もされていない。戦闘機から無数に落とされる筒の中にはどろどろの油がつまっていて、1度火がつくと普通の炎とは違って、払っても払っても消えない。苦しみながら死んでいった人達は、臨時の共同埋葬地にそのまんま埋められた。東京大空襲戦災資料センターの学芸員に、かつて共同埋葬地に記念碑のようなものが建っているのかと尋ねると、彼はそこを歩いてみてください、何も無いです、と答えた。戦後の開発で多くの骨たちは掘り返されて他の場所に移されて供養されたというけど、今でも気づかれないまま残っている人間の骨があるという。時々、出てくるのだという。その上には今は公園だったり、道路だったり、ビルだったりがある。私たちはその上を踏み、歩く、歩く、歩く。私たちが忘れても、土は覚えているだろう。

戦争は、国同士の利害とか思惑とかで語られやすいし、その遂行のためには国の下にある人間の犠牲は仕方ないと言われて、彼・彼女たちは単なる数字で表されて、それでことが終わったら、忘れられていく。どうしようもないことだったと、死者の存在が埋められていく。戦争のことを話すときほとんどの人が国名を主語にするけれど、ちがう、これは忘れるということ、諦めるということを行為する、私たちの話、あるいは私の話。私たち、私の命の話、そしてあなたの命の話。